結んではじまりひらいて終わる

見えるように言葉にします。

 

 

僕は「性的な芸術」の良さや意味が

まだよく理解できないのですが、

生身の人間のヌードについては

強く心を動かされた経験があります。

 

 

フォトグラファー蜷川実花さんの

写真展に行った時のこと。

 

 

セルフポートレートを展示した部屋があり

そこには、

 

僕が何の気なしに

なんでもないモノを撮るように、

鏡に映る自分の

恥ずかしげもなくデジカメ

軽くシャッターを切る蜷川実花さんの写真がありました。

 

 

それらの写真を見た時、

僕はこれが「強さ」だと感じました。

 

 

 

歳を重ねながら僕は羞恥心を隠すべく

一体どれだけの言い訳を着込んできただろうか。

 

「脱ぐ」ということは

「何も言わない」こと。

 

私が今までしてきたこと

私が今していること

 

事実はそれだけ

言い訳をしたところで変わらない

私のこの体のように。

 

 

誰に何を恥じている

恥じる必要などどこにもない

これが私だ。

 

 

 

写真からそんなことを感じ僕は

言い訳という弱さを脱ぎ、

出来る限り

で過ごしていこうと思いました。

 

 

 

最後に、書きながら思い出したジョンレノンの言葉を。

 

『人の言うことは気にするな。「こうすれば、ああ言われるだろう・・・」そんなくだらない感情のせいで、どれだけの人がやりたいこともできずに死んでいくのだろう。』

 

 

 

 

 

カメラの話

 

 

結婚式という

人の幸せが目に見えるような場所で

気付かされることは多いなぁと。

 

 

カメラを撮るのが好きで、

どんな風に撮れば良い写真になるかなぁと

ぼんやりと考えながら

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こんな写真を撮ったりしているのですが、

 (そもそも良い写真ってなんだ)

 

先月、友人の結婚パーティーに招待され、

頼まれもせずカメラを持って参席。

 

僕ももちろん楽しみながら、

幸せそうな二人の表情や

周りを囲む楽しそうな友人たちをカメラに収め

その翌日新郎に写真を送ったところ、

とても喜んでくれた様子で

僕の方が嬉しくなりました。

 

 

その時のことを振り返り、

どんな風に撮るかよりも

何を撮るかが大切で

何を撮るかよりも

なぜ撮るかの方がもっと大切なのでは…。

なんてことを思ったりして。

 

 

僕が逆の立場なら

撮ってくれた人がなぜ撮ってくれたのか

その理由に口元が緩みますし、

こんな瞬間を撮ってくれていたのか

と、くすぐったくなったりもすることでしょう。

 

どんな風に撮ってくれたかなんて技術は

きっとそんなに気にならないような気がします。

 

 

 

笑ってくれるから

喜んでくれるから

と、

誰かの気持ちを思いやりながら起こしたアクションは、

自分の嬉しいにつながるのかも。

 

忙しいと忘れがちになりますが、

誰かのために生きることは素晴らしい。

 

 

新郎は新婦のために、

新婦は新郎のために、

それぞれがそれぞれのために

生きようとすること。

 

結婚とはなんて素晴らしい。

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靴紐を結ぶような気持ちで

 

 

結婚式の進行の方たちは

「終わり」のことを

「結び」や「お開き」と言うみたいで、

 

結婚式に参席させてもらう度に

素敵な気配りだなぁと

穏やかな気持ちになります。

 

 

そんなことを感じながら

ふと、

 

靴紐を強く結び、

靴を履くという行為を終えて

玄関のドアを開き一日をはじめるように

 

終わらせるべきことを

ぎゅっと終わらせることが「はじまり」

なのかな、なんてことを思いました。

 

 

何か新しいことをはじめるときは

靴紐を「結ぶ」ような気持ちで

いられるように。

 

 

 

初めての投稿のご挨拶を結ばせていただきます。

 

 

 

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